新たに「赤城久伊豆神社本殿」及び「常光院本堂」を熊谷市の文化財に指定しました。
更新日:2018年4月4日
平成30年3月22日開催の熊谷市文化財保護審議会において「赤城久伊豆神社本殿」(石原)及び「常光院本堂」(上中条)の2件について熊谷市の文化財に指定するにふさわしいとの答申が出されました。これに基づき平成30年3月30日の熊谷市教育委員会において審議をしたところ、ともに承認され、同日付で熊谷市の有形文化財(建造物)として指定されました。指定の概要については次のとおりです。
赤城久伊豆神社 本殿
名称
赤城久伊豆神社本殿
種別・種類
有形文化財・建造物
所在地
熊谷市石原1007
所有者
宗教法人赤城久伊豆神社
概要
赤城久伊豆神社本殿は、二間社流造で、確認された棟札に記されている銘から建立年は寛延3年(西暦1750年)であると推定される。向かって右側に「正一位赤城明神」の幣帛、左側に「正一位久伊豆明神」の幣帛が納められている。
屋根は銅板瓦葺であり、旧来のこけら葺もその下に残る。全体の彫りは簡素であり、側面の羽目彫刻などは存在していないが、前面左右の虹梁(こうりょう)と呼ばれている撓む部位の組み込み方は技術の高さを示している。虹梁周辺の彫刻は、深く立体的に彫り上げる籠彫りと呼ばれる技法が施されている。蟇股(かえるまた)と呼ばれる上部横柱中央の仔細な彫刻も残されている。
棟札には、三ヶ尻村(現・熊谷市三ヶ尻)の秋山藤八正勝が棟梁として建立を担ったことが記されており、歓喜院聖天堂の彫刻にて多くの力量を発揮した石原吟八とその弟子の名も見える。上新田・諏訪神社本殿などの彫刻を担った前原藤次郎の他、石原系で主要弟子として名が知られているものの各地で銘が未確認であった深沢軍八の名があり、石原系彫物師の系譜に関する新たな情報となり得る。
国宝「歓喜院聖天堂」との関わりとしては、寛保2年(西暦1742年)の利根川の大水害から宝暦5年(西暦1755年)までの期間、聖天堂の工事が中断しており、建立年の銘からもこの時期の寛延3年(西暦1750年)、赤城久伊豆神社の着工と完工がなされたことが分かる。他の社寺建築において石原系彫刻師の参画が明確に記されている棟札等の事例は少なく、本殿建築の歴史的意義を補完するものである。この点からも赤城久伊豆神社本殿は、秋山をはじめとする熊谷地域の大工・技術者が研鑽を重ね、石原系彫刻師との協働関係にあった初期の実例を今に伝える歴史的建造物として、本市文化財にふさわしいと考えられる。
赤城久伊豆神社
常光院 本堂
名称
常光院本堂
種別・種類
有形文化財・建造物
所在地
熊谷市上中条1160
所有者
宗教法人常光院
概要
熊谷市上中条にある常光院は比叡山延暦寺直系の天台宗別格本山であり、龍智山毘慮遮那寺常光院と称されている。長承元年(西暦1132年)、藤原鎌足を祖とする藤原系中条氏、武蔵国司判官の藤原常光公が当地に下向し、公文所を建て、豪族白根氏との婚姻により「中條(中条)」の地名を姓として土着し、館を構えて政務に精励した。
常光院本堂は、元禄4年(西暦1691年)に木造平屋茅葺屋根の本堂が再建され、寛文12年(西暦1672年)に唐破風の大玄関が再建されたと伝わる。熊谷市教育委員会の調査により、本堂より発見された棟札には「飯堂」と称される建造物の新造の建立年が記されており、貞享4年(西暦1687年)との銘が残る。本堂との関係については不明であるが、これは同時期に本堂または新造された建造物の存在を示すものである。建築様式は、方丈建築の寄棟茅葺、屋根構造は和小屋構造、大きさは正面が22.5メートルで、側面が17.9メートルである。屋根構造は竹または丸太の垂木の上に杉皮で覆い、縄、針金の類を用いて茅を葺く方法が用いられている。
常光院本堂は中条氏及び古刹常光院の歴史的経過を今に伝える貴重な建造物として保存されており、内部意匠や建築技術の水準など特筆すべき点も多い。また、調査によって判明した内部の梁構造の特色や、長年にわたって茅葺の葺き替えを実施しながら現在まで壮観な屋根構造を維持している点などは、熊谷地域の社寺建築を考証する上で歴史的意義を有するものである。
上中条地区のみならず熊谷地域における平安時代以降の歴史や文化を考える上で、常光院の存在価値を明らかにする意味においても、常光院本堂は本市文化財にふさわしいと考えられる。
常光院本堂