奈良公民館(ならこうみんかん)
更新日:2021年8月13日
施設概要
奈良公民館外観
奈良公民館は昭和44年に建設された、鉄骨造2階建ての施設です。
部屋は、ホール、和室、会議室があり、生涯教育・社会教育活動に利用可能な施設です。
ホール
和室
会議室
対象区域
- 上奈良
- 中奈良
- 下奈良
- 奈良新田
- 四方寺
ホール設備
アップライトピアノ
駐車場
15台
公民館事業
ほのぼの学級
年9回、生涯学習として、講演会・健康教室・視察研修・人権研修・スポーツ等を実施しています。
奈良地区文化展
地域事業
文化展:奈良地区文化展に、公民館利用学習グループの作品、学級生の作品、その他一般の方々の作品を発表しています。
連合運動会:奈良連合運動会を、地域内の子ども達から、お年寄りまでの参加による地域の一大行事として開催しています。
その他:敬老会・七つの祝い・奉仕作業等を行っています。
休館日およびご利用できない日
- 12月28日から翌年1月4日まで。
- その他、管理上、特に必要があると認めたとき。
所在地
熊谷市下奈良609番地6
電話等
電話番号
048-521-0056
ファクス番号
048-526-2026
使用料
部屋名 | 面積(平方メートル) | 午前使用料(9時から12時) | 午後使用料(13時から17時) | 夜間使用料(18時から22時) | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ホール | 84 | 520円 | 730円 | 1,050円 | ||||||
会議室 | 42 | 420円 | 520円 | 730円 | ||||||
和室 | 56 | 420円 | 520円 | 730円 |
熊谷市、深谷市または寄居町に居住または通勤もしくは通学をしている者以外の者が利用する場合の使用料は、規定の使用料の額の100分の150に相当する額を納入いただきます。
「奈良」地域について
地名の由来
奈良(なら)
「平」の字には「ナラす」の意味があり、平らにする→ナラすから出たものと推測される。平らな地形からきた地名と推測されている。
又は、中奈良にある奈良神社の祭神「奈良別命(ナラワケノミコト)」からおこった地名とする説もある。
四方寺(しほうじ)
寺名でなく、たわんだ土地を意味する「シオジ」の転化からきたものではないかと推測されている。
奈良村合併之碑(ならむらがっぺいのひ)
奈良村合併之碑
JAくまがや奈良支店の敷地内に建てられているこの碑は、奈良村が昭和29年に別府村、三尻村とともに熊谷市へ編入したことを記念して建てられたものです。高さは181.0センチメートル、幅は136.0センチメートル。
碑文には「ここに新たに熊谷市民となったわたくし達はこの際覚悟を新たにし自己の権益を主張するとともに義務を完遂する良識ある市民となろうではないか」との決意が刻まれています。
石坂養平(1885-1969):奈良村(現熊谷市)出身の文芸評論家・政治家。大正4年の「芸術と哲学の間」で注目され、『文章世界』などに執筆。一方政界にも進出し、昭和3年衆議院議員に当選、戦後は埼玉県公安委員長、埼玉県文化財保護審議委員、埼玉県文化団体連合会長などの要職に就く。
奈良村道路元標(ならむらどうろげんぴょう)
奈良村道路元標
中奈良の熊谷市立農業活性化センター「アグリメイト」西側の用水路脇に設置されています。花崗岩製。
道路元標:道路の起終点を示す標識で、明治44年に、現在の日本橋が架けられたとき、「東京市道道路元標」が設置され、大正6年の旧道路法で各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされた。
横塚山古墳(よこづかやまこふん)
横塚山古墳
古墳の代表的な形態である前方後円墳で、全長は約40メートル、後円部径22.5メートル、高さは後円部で3.2メートル、前方部で2.5メートルです。国道407号線工事に伴って、昭和46年(1971)と昭和52年(1977)の2度の発掘調査により
熊谷市指定記念物史跡:昭和44年9月11日指定
吉田市右衛門(よしだいちえもん:慈善事業家:1783から1844年)
吉田市右衛門宗敏
吉田家は代々“市右衛門(いちえもん)”を名乗り、初代から宗以(1703-1792)-宗敬(1739-1813)-宗敏(1783-1844)-宗親(1816-1868)-宗載(1845-1868)と五代にわたり、社会事業家・慈善事業家として、私財を投げ打って物資などを援助し、近隣の村々などから多くの尊敬を集めました。
2代宗敬は村内や近村にかかる橋を石橋に架け替えたり、浅間山の噴火の時に被害者に援助物資を送ったりしました。3代宗敏は用水や河川の改修のためのお金を上納したり、
昭和36年には、「吉田市右衛門墓(外部サイト)」が、埼玉県指定記念物旧跡に指定されています。
石坂養平(いしざかようへい:文芸評論家・政治家:1885から1969)
石坂養平作品展集合写真
埼玉県大里郡中奈良村(現在の熊谷市)に生まれる。幡羅尋常小学校、熊谷中学校を経て明治35年(1902)に第二高等学校に進学、明治39年(1906)に東京帝国大学理学部に進学したが中退、明治43年(1910)に同文科大学哲学科に再入学。在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められました。
大正4年(1915)父の死にともない奈良村に帰郷し、地域の名士として奈良村農会長や同信用販売購買組合長、大里郡乾繭販売利用組合長や同農会長や同養蚕業組合連合会長などを歴任。その一方で評論活動を続け、大正8年(1919)には「有島武郎論」を発表して作家の有島武郎との間で論戦を展開。また、熊谷地域で文芸雑誌『曙光』が出版された際には、その後援者になるなど地域青年の文化育成にも取り組みました。
大正9年(1920)立憲政友会から埼玉県議会議員選挙に出馬し当選、昭和3年(1928)第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。さらに第19回から第21回まで連続当選を果たしました。政界に進出する一方で実業界でも活動し、武州銀行監査役、熊谷製糸株式会社取締役、昭和18年(1943)からは埼玉銀行取締役などの要職を務めました。
PDF形式のファイルを開くには、Adobe Acrobat Reader DC(旧Adobe Reader)が必要です。
お持ちでない方は、Adobe社から無償でダウンロードできます。
Adobe Acrobat Reader DCのダウンロードへ