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本町公民館(ほんちょうこうみんかん)

更新日:2025年7月31日

施設概要

施設はありませんが、中央公民館を主な活動場所としています。

対象区域

本町1・2丁目、仲町、星川1・2丁目、鎌倉町、弥生1・2丁目、宮町1・2丁目、末広1から3丁目、筑波1から3丁目、銀座1から7丁目、箱田1から7丁目、桜木町1・2丁目、万平町1・2丁目、曙町1から5丁目、肥塚、肥塚1から4丁目、中西1から4丁目、中央1・2・4丁目の全部
末広4丁目、箱田、河原町2丁目、宮前町2丁目、上之、上川上、平戸、戸出、円光1丁目、円光2丁目、中央3丁目、中央5丁目の各一部
(注釈)熊谷東、熊谷西、桜木の3つの小学校の通学区域全体

「本町」地域について

札の辻跡(ふだのつじあと)

札のつじは、高札こうさつの設置場所で、高札場こうさつばとも言われました。高札こうさつは、おきて条目じょうもく禁令きんれいなどを板に書いた提示版で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・街道など人目を引く所に提示されました。
熊谷宿の高札場こうさつばは、宝永年間に記された「見世割図面写」により、場所・大きさなどが推定できます。
場所については、「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場こうさつばが描かれています。この説明から、高札場こうさつばは現在の大露地おおろじ通りと中山道の交差する道の中央辺りにあったことが推察できます。高札こうさつは、高さが、一丈一尺(約二・三メートル)、横幅が六尺四寸(約二メートル)の大きさでした。高札こうさつ十四枚は市指定文化財として保管され、中山道の歴史を知る資料となっています。
熊谷市指定記念物史跡。

本陣跡(ほんじんあと)

江戸時代、各街道の宿場町に置かれた大名や幕府役人・公家・貴族などのための特別な旅館です。熊谷宿には竹井本陣・鯨井くじらい本陣・石川本陣の3軒の本陣がありました。竹井本陣は、「本陣絵図」により間取りの状況が明確であり、規模・構造ともに全国屈指のものであることが分かっています。
熊谷市指定記念物史跡。

陣屋跡(じんやあと)

江戸時代、熊谷宿は忍藩おしはんに属しており、忍藩主おしはんしゅの命を受けての町の運営が行われ、宿の役人が担っていました。陣屋じんや跡は、現在の千形ちかた神社付近に置かれ、忍藩おしはんの役人が交替で訪れ、熊谷宿の運営の監督をした役所の跡であるとされています。平時は留守番を置き、事あるときは役人を派遣して事務を行いました。
熊谷市指定記念物史跡。

戦災者慰霊の女神像

1975年に、星川に建てられた戦災者慰霊いれいの女神像。北村西望氏による、昭和20年8月14日の熊谷空襲で亡くなった方々の慰霊いれいのための平和祈念像。

星溪園(せいけいえん)

竹井澹如たんじょが元和年間からある池を中心に名石、石塔を配置して造った名園。
この池は元和9年(1623)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れてできたもので、その池には清らかな水が湧き出るので、「玉の池」と呼ばれ、この湧き水が星川の源となりました。昭和初期、この地を訪れた前大徳牧宗禅師(ぜんだいとくぼくしゅうぜんじ:大徳寺僧:京都臨済宗)が、「星溪せいけい」と命名し、昭和25年に熊谷市が譲り受け、昭和29年に市の名勝として指定しました。平成2年から4年にかけて園内の整備が行われ、老朽化の見られた建物は、数奇屋すきや感覚を取り入れた上で復元されました。

熊谷新八景『石上寺櫻堤』

熊谷新八景石上寺櫻堤の画

熊谷桜が咲き誇る花の御寺を詠んだもの。
石上寺櫻堤
千枝櫻気曙霞紅
石燈香台花影中
評画題詩芳樹下
文人適意坐春風
(大意)
枝々には桜の気がただよい、明け行くかすみの中に薄紅いの花が咲き誇り
石段の上にある御寺は、花影の中に見え隠れする
画を評し、詩を論ずる桜の木のもと
文人は正に真意を得て、春風に座している

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中央公民館
電話:048-523-0895(直通) ファクス:048-523-0896

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