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奥原晴湖終焉の地・晴湖の道

更新日:2014年3月24日

奥原晴湖は、天保8年(1837年)に古河藩士の池田政明の四女として生まれました。29歳の時に関宿藩奥原家の養女となり上京、上野池之端の岡村家を頼り、摩利支天横丁に新居を構え「墨吐烟雲楼ぼくとえんうんろう」と看板を掲げ、晴湖と号しました。その後、江戸を中心に南画の代表画家として活躍しました。明治24年に古河藩領があった上川上村(熊谷市上川上)に居を構え、「繍水草堂しゅうすいそうどう」と称する画室を設け、多くの作品を発表すると共に秀逸な弟子達を育てました。大正2年(1913年)、この地で77歳で亡くなり、上之の龍淵寺に葬られました。平成18年、終焉の地となった晴湖の寓居へと通じる玉石の敷かれた道の跡が発掘され、「晴湖の道」として再現されました。平成25年には、地域住民を中心として「晴湖の道保存会」が結成され、周辺の環境保全や晴湖の啓発活動を行っています。


奥原晴湖終焉の地


晴湖の道(中央)

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