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◆近代

更新日:2006年9月27日

明治維新を迎えて、廃藩置県の制度により忍藩から忍県、そして入間県へと変わっていきます。明治6(1873)年6月、熊谷出身の初代県会議長で、特に板垣退助と親交があり「関東の板垣」とも呼ばれるほど数々の優れた業績をのこした竹井澹如(たけいたんじょ)などが陸奥宗光らに働きかけたことにより、現在の埼玉県北西部と群馬県の大部分とを合わせて熊谷県が誕生します。県庁は熊谷寺に置かれました。
明治9年8月までのわずか3年間でしたが、熊谷県関係の資料が今も残されています。明治16(1883)年には上野-熊谷間に鉄道が敷かれ、生糸などの多くの物資が遠く横浜港まで運ばれました。この鉄道開通により、熊谷の町は大いに発展しました。

古くから農業が盛んでしたが、麦の栽培方法の改良に尽力した「麦王」権田愛三、養蚕に尽力した鯨井勘衛などによって技術革新がなされます。こうした先人による技術革新が、工業都市としての熊谷を生み出します。養蚕の盛んな熊谷は製糸業も盛んになり「製糸の町」とも呼ばれ、多くの製糸工場が建てられました。江戸時代から盛んになった熊谷染は、型紙による小紋染め(江戸小紋)で、明治に入ると技術が進み、手描きによる京都の友禅染のように盛んになりました。また改良を重ねた小麦を粉にする製粉業も盛んで、松本真平は現在の日東製粉の礎を築きました。

そして竹井澹如、林有章(はやしありあきら)、根岸友山(ねぎしゆうざん)・武香(たけか)といった多くの先覚者たちが、産業や文化など多方面で力を尽くし、現在の熊谷の発展の基礎を築きました。
根岸友山は、私邸に歌人・安藤野雁(あんどうぬかり)や国学者・寺門静軒(てらかどせいけん)を招き、邸内に「三餘堂」という私塾を開きました。根岸武香は、貴族院議員になるなど政治家としてだけでなく、文化人として文化財の収集・保存にも努め、上中条で発掘され、現在は東京国立博物館に所蔵されている重要文化財「武人埴輪」「馬型埴輪」の保護などもしました。女性先覚者としては荻野吟子があげられます。日本公許登録女性医師第1号となり、35歳で東京・本郷湯島で開業しました。その生涯は小説などで広く紹介されています。

このように様々な分野で発展をとげていた熊谷には、江戸から大正にかけて多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)がいました。歌人・安藤野雁、『江戸繁盛記』を著した国学者・寺門静軒、俳人・内海良大(うつみりょうたい)、“寛政の三名筆”とよばれた書家・野口雪江、

南画・文人画家として一世を風靡した画家・奥原晴湖(おくはらせいこ)、東京芸術学校(今の東京芸大)卒業し、「春陽会」の創立会員となるなど中央画壇で活躍した森田恒友(もりたつねとも)、県下初の洋画団体である「坂東洋画会」を創立した大久保喜一(おおくぼきいち)などです。こうした多くの文人・芸術家にも支えられ、熊谷の町は大きく発展しました。

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