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◆近世

更新日:2007年6月1日

江戸時代に入ると、熊谷は中山道の宿場町として栄えます。渓斎英泉(けいさいえいせん)と安藤広重が描いた浮世絵「木曽街道六拾九次(きそかいどうろくじゅうきゅうつぎ)」の「熊谷宿」の場面に、当時の様子が描かれています。また「熊谷町古絵図」(市指定文化財)には本陣や脇本陣、一般の庶民が泊まる旅籠や茶屋などの多くの店があり、熊谷宿が栄えていたことがわかります。江戸時代の中ごろには旅籠や茶店など合わせて380軒ほどの家数があり、江戸時代末頃には、たばこ屋、質屋、太物屋、造酒屋など多くの商店でにぎわい、3,200人を越える人口がありました。宿では六斎市(ろくさいいち)が開かれ、木綿織物や多くの農産物が売買されました。うちわ祭が始まったのもこのころで、寛延3(1750)年に始まったとされています。

そして中山道だけでなく秩父街道などの脇街道や、荒川・利根川には川を渡る渡船場や、江戸とを結ぶ商品流通の要所である河岸があり、交通の要所として発展しました。特に中山道から石原付近で分岐する秩父街道は、秩父34番札所めぐりや三社(秩父神社、三峰神社、宝登山神社)めぐり、また秩父絹の商人の往復でにぎわいました。中山道との分岐点に『秩父道しるべ』(市指定文化財)が建てられ、今も残っています。これらの主要な街道には「一里塚」が設けられました。熊谷地内では、久下新田、柳原(曙町)、新島の3ヶ所に設けられましたが、現在は新島の一里塚(指定文化財)しか残されていません。新島の一里塚は、日本橋から17里の地点に設けられました。

聖天山本堂の再建もこのころ行われました。享保19(1734)年に林兵庫正清(はやしひょうごまさきよ)によって設計図が作成され、享保20年から宝暦10(1760)年まで実に25年の歳月をかけて聖天山本堂(聖天堂)の再建工事が実施されました。総工費は当時のお金で19,000両といわれています。

本堂の彫刻は、日光東照宮に勝るとも劣らないほどの素晴らしい技術により制作されたもので、こうした再建事業が幕府主導によるものではなく、庶民から寄附を募ることにより資金を集めて行ったことも特筆すべきことでしょう。これらのことから、建築史上でも大変重要な建築物であるといえます。

利根川・荒川の大河が流れる熊谷の歴史は、洪水との戦いの歴史でもありました。利根川、荒川の氾濫により多くの村々が被害をうけ、堤防普請や田畑の再開発など、農民を苦しめました。利根川の堤防に近い地区には、当時水害に襲われたときに避難するため、屋敷地内に盛り土をし、その上に蔵を建てたものが今も残っています。これを「水塚(みづか)」と呼びます。
また、熊谷を訪れた著名人として渡辺崋山がいます。かつて三河国(愛知県)田原藩の藩領だった三ヶ尻を、藩主の命令で当地を調査し、『訪?録(ほうへいろく)』(県指定文化財)を著しました。そして龍泉寺の「双雁図(そうがんず)」(県指定文化財)をはじめ、そのとき書かれた多くの書画が現在も崋山ゆかりの地に残っています。

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