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原始・古代

更新日:2016年6月14日

熊谷での人々の生活は、野原の遺跡から発見されている石器から、今から約22,000年前の旧石器時代に始まったと考えられます。三ヶ尻、冑山、箕輪、千代などからは、縄文時代の遺跡が数多く発見されていて、今から約10,000年前には、人々が近くに水辺のある高台で生活していたことがわかります。弥生時代に入ると、熊谷でも稲作が始まり、人々の生活は低地に進出していきます。紀元前1世紀頃の池上遺跡では、住居跡から炭化した米粒が発見され、中条の北島遺跡では県内最古の水田や灌漑施設(かんがいしせつ)が発見されています。一方、台地上には千代や塩などに谷津田が開墾されました。また、飯塚、西別府の低地では東日本特有の再葬墓(さいそうぼ)がつくられ、その後上之や船木台では大阪湾付近から発生した方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という形式の墓がつくられるようになります。

熊谷では4世紀頃から塩古墳群(狸塚支群)の前方後方墳など、有力者によって古墳がつくられはじめます。冑山にある甲山古墳は、全長90m、高さ11.25mで、6世紀前半のものと考えられ、円墳としては県内第2位、全国でも4番目の規模をもちます。古墳は埴輪を伴うものもあり、6世紀中頃の中条古墳群からは、国の重要文化財に指定されている短甲武人埴輪(たんこうぶじんはにわ)や馬形埴輪(うまがたはにわ)が発見され、

野原古墳群からは「おどる人々」と名付けられた埴輪が出土しました。また、千代からは埴輪を焼いた窯跡が発見されています。国の史跡に指定されている宮塚古墳は、上円下方墳(じょうえんかほうふん)という珍しい形の古墳で、古墳築造が行われなくなってゆく7世紀末から8世紀初めにかけて造られました。

奈良・平安時代になると、土地と人民を国が把握することを目的に、律令体制が整えられます。熊谷周辺は幡羅(はら)郡、埼玉(さきたま)郡、大里郡、男衾郡(おぶすまぐん)などに含まれたと考えられています。別府・中条・道ヶ谷戸・恩田地区の低地などでは条里制がひかれ、広大な土地が農地として整備されました。8世紀頃になると、熊谷にも古代の寺院がつくられます。千代地区の寺内廃寺からは、金堂や塔の基壇(きだん)や礎石、「花寺」、「東院」と書かれるなどした墨書土器が発見されていて、伽藍設備をともない、800m四方の規模をもった本格的寺院だったことがわかっています。また、西別府廃寺からは、瓦や墨書土器が発見されています。隣接する湯殿神社の裏手の湧水点からは、馬や櫛、勾玉などを模倣した石製品や土器などが発見され、水辺での祭祀(さいし)が古くから行われていたことがわかっています。深谷市側では、幡羅郡の郡衙(ぐんが:役所)跡が発見されていることから、この地が郡の政治的・宗教的中心地であったと考えられます。また、延喜5年(905)に編さんされた『延喜式(えんきしき)』には、奈良神社、田中神社、高城神社、白髪神社(しらひげじんじゃ)などが記載され、古くから人々の信仰を集めていたことがわかります。

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熊谷の五つの歴史

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