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もっと教えて!所長さん!! 国指定史跡「幡羅官衙遺跡群」

更新日:2018年5月31日

市報くまがや平成30年6月号の紙面との連携特別企画です。


市報6月号の特集記事です。

もっと教えて!所長さん!!

はい。私が江南文化財センター所長です。このページを訪問してくださり、ありがとうございます。ここでは市報ではご紹介しきれなかったことについて、写真付きでご覧いただけます。

1 この時代の国の様子が知りたい!!

回答します

 幡羅はら郡があった時代は、中国の唐を模範にした、都を中心とする中央集権的な、法律に基づいて国が治められた律令国家の時代でした。

 都に京、地方も70を超える国に区分され、国の下は郡、その下は里(のちに郷)という単位で区画されていました。

 幡羅郡は、武蔵国むさしのくに(おおよそ現在の埼玉県・東京都)に所属し、武蔵国には21郡ありました。

 また、幡羅郡には8つの郷があり、郡のほぼ中央の「幡羅郷」に郡家がありました。

 なお、「幡羅」の地名は、飛鳥時代終わりの藤原京出土木簡、奈良時代の武蔵国分寺の瓦、平安時代の文書(延喜式、

和名類聚抄)などに見られ、奈良時代の好字令により「幡」「羅」の2文字が使われ、江戸時代前期くらいまでは、「はら」と読んでいたと考えられます。

2 遺跡群の実際の大きさが知りたい!!

回答します

史跡指定を受けた遺跡範囲の規模は、次のようになっています。

幡羅官衙はらかんが遺跡(深谷市東方)

指定面積は約9万5千平方メートル

西別府祭祀さいし遺跡(熊谷市西別府)

指定面積は約7千平方メートル

 指定された遺跡のほかにも、西別府廃寺と西別府遺跡(幡羅官衙遺跡と一連の遺跡)があり、全てを含めると、15万5千平方メートルを超える規模となります。

3 幡羅郡は、どこにあったの?

回答します

 おおよそ、現在の荒川より北の熊谷市西部(旧妻沼町域を含む)と、深谷市東部と推定されます。当時は、現在の市境のように明確な郡の境はなかったようで、河川や道路が意識されていた可能性が高いです。具体的な推定郡域は、北が利根川、南や東が荒川とその旧流路、西が深谷市市街地を流れる唐沢川と平行する旧流路が想定されます。なお、東については、深谷市菅沼や瀬山から熊谷市の三ヶ尻、奈良、葛和田までが有力で、西から南までの境は、深谷市の市街地の唐沢川近辺から深谷市の折之口や瀬山付近までが想定されます。

4 幡羅郡の当時の人口は、どれくらいだったの?

回答します

幡羅郡には、次の8ごうがありました。

  • 上秦かみつはた
  • 下秦しもつはた
  • 広沢ひろさわ
  • 荏原えはら
  • 幡羅はら
  • 那珂なか
  • 霜見しもみ
  • 余戸あまるべ

     郷()は、徴税単位の人的集団のが50にまとめられた単位でした(50戸で1里)。
     東大寺正倉院史料等によると、1戸の人数は約20人です。このことから、1郷(里)の人数は、1戸の人数である約20人に50戸を乗じた数となり、約1,000人になります。したがって、幡羅郡の人口を推定すると、1郷(里)が約1,000人ですから、8郷を掛けると、約8,000人ということになります。

5 西別府祭祀遺跡(祭祀場)の、祭祀の様子はどうだったの?

回答します

 ここでの祭祀は、幡羅郡家(郡役所)が整備される前の飛鳥時代・7世紀中頃(今から約1,350年前)から平安時代・11世紀前半(今から約950年前)までの約400年間続けられていたと考えられますが、この長い間には祭祀の様子が変化していることが推定されています。それは、祭祀が始められた頃から幡羅郡家が整備される7世紀末から8世紀初頭まで(700年前後・奈良時代の初め頃)は、石製模造品を祭祀の道具として使っていましたが、その後は、祭祀が行われなくなるまで、土器を祭祀の道具として使っていたことが考えられます。その土器を使った祭祀も、特殊な文字、願文がんぶん吉祥きっしょう(「めでたいこと」の意味)文字などを土器に墨で書いて祈りを捧げていたと考えられます。また、平安時代・9世紀後半頃(今から約1,150年前頃)以降は、仏教的な要素がみられるようになり、祭祀が終わる時までその要素が色濃くなっていったと考えられます。

 さて、具体的に祭祀がどのように行われていたかといいますと、あくまでも想像の域を出ませんが、豊富な湧き水を水源とする河川を目の前にする台地のへりに祭壇が設けられ、石製模造品や土器が供えられ、土器には神様(水神)へのお供えものがのせられ、郡司など郡の役人が見守る中、神官が祈りを捧げ、その後祭壇の上の祭祀の道具(お供えものも含む)は、河川の中に投げ入れられたものと考えられます。

 なお、この河川の底からは、幡羅郡家役人の子弟によるものと考えられる習書(手習い)木簡が出土しています。

6 西別府廃寺で見つかったものはどんなもの?

回答します

 この遺跡は現在特別養護老人ホームがある場所を中心としています。

 以前は雑木林があり、たくさんの古代の屋根瓦などが採取され、寺院の存在が推定されていましたが、寺院があったことの確証やその様子が3次にわたる調査でわかってきました。

 ここでは次のものが発見されています。

  • 多量の寺院屋根瓦(軒先を飾った軒丸瓦9種類・軒平瓦4種類、丸瓦・平瓦)
  • 寺や仏教関連の土器
  1. 托鉢のときの器である鉄鉢形土器
  2. 菜種油で火をともす皿である灯明皿
  3. 墨書土器という墨で字が書かれた土器。字は「寺」「院」「寺工宋てらたくみそう(寺の造営に携わった人のことか)」「淨(清めの意味)」がある。
  • 寺院建物の基礎土台である基壇
  • 実際の塔の代用や信仰の対象として使われた瓦塔(土製のミニチュアの塔)
  • 寺院の日常的な維持管理や釘などの鉄製品を作った鍛冶工房などの竪穴建物
  • 上記の主要な建物を取り囲む区画溝
  • 寺院の敷地全体を取り囲む大きな堀(溝)

 寺院は、奈良時代・8世紀初頭に創建され、平安時代・9世紀後半までの約200年間存続したことが分かっています。その間、この寺院では郡政治の安定などを、仏に祈っていたと考えられます。

7 西別府廃寺(寺院)は、どんな様子だったの?

回答します

 西別府廃寺は、8世紀初頭(700年頃・今から約1,300年前頃)、幡羅郡家が整備された頃に郡に付属する寺院として建立され、調査によると9世紀後半(今から約1,100年前)まではあったと考えられます。国分寺で行われたのと同じように寺院で仏に祈りを捧げた僧侶は、郡司を輩出した地方豪族から選ばれた可能性が考えられます。
 この寺院は、創建当初から、塔や金堂などの主要な建物があったのではなく、徐々に整備されていったこと、8世紀中頃以降には、寺院としての風格を備えていったことが推定されます。また、補修をしながら存続し、寺院がなくなる約50年以上前には拡充をしたことが考えられます。
 なお、寺院がなくなった後も、竪穴建物内で仏教行事が続けられましたが、中世(鎌倉時代以降)には墓がたくさん造られる場所となってしまったと推定されます。

8 西別府遺跡では、どんなものが発見されているの?

回答します

 西別府遺跡は、西別府廃寺と幡羅官衙遺跡に挟まれた遺跡で、郡家の一施設が発見されています。それは、平安時代の9世紀前半(今から約1,200年前)から11世紀前半(今から約950年前)までの、二重の溝で区画された施設で、その中には大小の掘立柱建物が建てられていました。二重の区画溝の間には、木製の塀が溝と平行してありました。これは、後に土塁といって土盛りをした土手のようなものに造り替えられ整備されていったと推定されます。
 なお、未だ発見されていない郡家の郡庁は、この遺跡のどこかにあることが有力視されています。

9 郡家は、なぜなくなったの?

回答します

 幡羅郡家は、性格を変えながら11世紀前半まではあったと考えられますが、この現象は全国的に見ても珍しく、おおかたの郡家は10世紀後半には衰退・消滅していくと考えられています。郡家が消滅していく原因の一つとして考えられているのは、律令による中央集権政治体制がかげりを見せ、9世紀中頃には、郡司の権限が薄れ、国司の権限が強化され徴税の権限が吸収されたり、正倉の管理も国司が行うようになり、郡司に就任することを避けた者が多くなっていったことです。このような状況が、郡家の消滅の引き金となったと推定されます。
 また、11世紀頃からは、有力者へ田を寄進する動きがみられ、これは租税の免除を目的とした動きで、土地や民衆の私的支配が始まっていくことも影響していると考えられます。

専門用語の解説

用語 意味や解説
官衙かんが 役所のこと。
祭祀さいし 神や仏に祈りをささげるお祭りのこと。
石製模造品せきせいもぞうひん 柔らかく加工しやすい石を材料として、まが玉・剣・鏡などの形をまねて作った祭祀の道具。西別府祭祀遺跡では、馬形・櫛形・有孔円板形・有線円板形・まが玉形・剣形・人形の7種類、297点が確認されている。
郡司ぐんじ

郡司は、有力な地方豪族から任命され、終身官であった。幡羅郡には郡の規模から4名いたとされる。4名はそれぞれ大領だいりょう少領しょうりょう主政しゅせい主帳しゅちょうという役職で、順に、長官(統括責任者)、次官(長官の補佐役)、三等官(役所の取り締まりや
主帳の作る文書の審査などの役)、書記官(記録・文書を作る役)である。

国司こくし 国司は、中央の官人が任命され、任期があった。通常は、国府に設けられた国庁で政務を行い、年に一回諸国を巡行し、諸国の政務を掌握した地方官。諸国巡行の際は、郡家の「たち」を宿泊施設として使った。
木簡もっかん 当時の紙。板状木片で、墨で文字を書き小刀で削って何度も使用した。物資運搬の荷札などがある。
国分寺こくぶんじ 聖武天皇が741年に命じ、仏の力で国を治めるため国ごとに建てさせた寺院。
延喜式えんぎしき 905年から927年までに作られた法律の運用規則書。
和名類聚抄わみょうるいじゅしょう 934年頃に作られた辞書。
好字令こうじれい

713年に国の名前には良い2文字を使うよう命じたもの。

条里じょうり 1辺を1町(約109メートル)の四角形に区切った土地を基にした、古代の土地区画。
掘立柱建物ほったてばしらたてもの 地面に柱穴を掘り、柱を据えて建てた建物。郡家では、この掘立柱建物が主要な建物で、正倉の建物は、礎石の上に柱を据えたものもある。
竪穴建物たてあなたてもの 通常、竪穴住居と呼んでいる建物。地面を方形等に掘りくぼめ、柱を立て茅で屋根を葺いた建物で、夏涼しく、冬は暖かかったと言われている。建物としたのは、住居の用途だけではないことからである。

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このページについてのお問合せは

江南文化財センター
電話:048-536-5062(直通) ファクス:048-536-4575

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