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成田公民館(なりたこうみんかん)

更新日:2021年8月16日

施設概要

成田公民館は昭和50年に建設された、鉄骨造2階建ての施設です。
部屋は、ホール、和室、会議室があり、生涯教育・社会教育活動に利用可能な施設です。

対象区域

上之の一部、末広四丁目の一部、上川上、中央三丁目の一部、中央五丁目の一部

ホール設備

アップライトピアノ

駐車場

20台

公民館事業

いきいきふれあい学級
公民館だよりでお知らせして、募集を行っています。
申し込み順に定員になり次第講座を開設しています。興味を持ちやすい事、指先や体を使ったものを中心に内容を決めて、参加いただいています。

ふるさと交流事業
地域の人との交流を目的として、祭りや運動会、演技発表、作品発表等を行っています。

成田音頭:昭和53年7月2日成田公民館制定
作詞:吉田守男、作曲:鯨井一郎、編曲:まがり大
一.昇る朝日の 空さわやかに 今日も黄金の 稲の波 遠い昔を語るよに おらが成田に 花が咲く サッサヨイトナで花が咲く
二.守る氏神 雷電様や 古い由緒の 龍淵寺 緑しづかな ふるさとを 大きく伸びよと守り見る サッサヨイトナで 守り見る
三.昔偲べば 建武の臣で 帝護った 小三郎 晴湖と墓と ともどもに その名は遠く知れわたる サッサヨイトナで知れわたる
四.ホタル狩りしたあの成田川 ふれた手先に かがやいて 龍門橋で 右 左 水にうつした 二人影 サッサヨイトナで 二人影
五.老いも若きも 揃って踊ろ 成田音頭の なごやかさ 空にまんまるお月様 明日も成田は日本晴れ サッサヨイトナで日本晴

成田ブルース:昭和53年7月2日成田公民館制定
作詞:吉田守男、作曲:鯨井一郎、編曲:まがり大
一.みどりの香りほほなぜて 流れは語る 成田川 恋の蕾を 龍門橋に あー恋は成田のブルースよ
二.雷電様の 祭り灯は そぞろあるきに胸こがし 風にやさしくおくれげゆれて あー恋は成田のブルースよ
三.つゆ草ふんだ 川岸に 水面にうつる 影二つ よんだホタルも二つの光 あーなびく成田のブルースよ
四.雨にうたれて聞く鐘は 古き由緒の 龍淵寺 故郷成田に稲穂の花が あーひらく成田のブルースよ

休館日およびご利用できない日

  • 12月28日から翌年1月4日まで。
  • その他、管理上、特に必要があると認めたとき。

所在地

熊谷市上之531番地2

電話等

電話番号

048-523-0278
電話でのお問合せは月曜日・火曜日・木曜日・金曜日にお願いします。

ファクス番号

048-523-0278

使用料

成田公民館使用料
部屋名 面積(平方メートル) 午前使用料(9時から12時) 午後使用料(13時から17時) 夜間使用料(18時から22時)
ホール 84 520円 730円 1,050円
会議室 42 420円 520円 730円
和室 46 420円 520円 730円

熊谷市、深谷市または寄居町に居住または通勤もしくは通学をしている者以外の者が利用する場合の使用料は、規定の使用料の額の100分の150に相当する額を納入いただきます。

「成田」地域について

地名の由来

成田(なりた)

低湿の川沼地帯が、灌漑などで田に成ったからとする考えがある。

上川上(かみかわかみ)

かつて、「上川上ノ郷」と称した郷があり、後にこの郷が3つの村にわかれた際、本地域はその名称をそのまま使い、上川上村とした。他は、下川上村、大塚村と称した。

奥原晴湖(おくはらせいこ:女流南画家の大家:1837から1913年)

古河藩士の池田政明の四女として生まれました。10歳のころには古河藩家老の鷹見泉石と交流が生まれ、17歳の時に谷文晁の流れを汲む枚田水石に絵画を学ぶようになります。29歳の時に関宿藩奥原家の養女となり上京、上野池之端の岡村家を頼り、摩利支天横丁に新居を構え「墨吐烟雲楼」と看板を掲げ、晴湖と号しました。このころの画風は、豪放磊落ごうほうらいらくで力強いながら、理にかなった用筆や功名な構図が見られ、世に“東海書き”と称されました。「墨吐烟雲楼」では、書画と共に漢学を教えました。漢詩は当時第一流の大沼枕山や薄井小蓮に添削を受け、作品には必ず自作の詩や詩句を書き、独特の詩境を見せるようになりました。
明治元年、32歳の頃には木戸孝允や山内容堂、大沼沈山らの画会に出席し、政界の名士と交流し、明治5年には皇后陛下の御前で揮毫きごうするなど、華々しく活躍しました。その活躍から明治12年の「皇国名誉書画人名録」に閨秀けいしゅう画家として晴湖が筆頭にのぼりました。
その後「墨吐烟雲楼」が鉄道用地として買い上げられると、古河藩領があった上川上村(現・熊谷市)に居を構え、画室を「繍水草堂」「繍佛草堂」「寸馬豆人楼」などと称して作品を発表しました。その画風は密画が多く、非常に鮮やかで色彩豊か、細密な筆致で描かれるようになりました。その後の大正2年に77歳で亡くなり、上之の龍淵寺に葬られました。
昭和36年には「外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。奥原晴湖墓(外部サイト)」として埼玉県指定記念物旧跡に指定されています。
また、平成18年には晴湖の画室に通じる玉石の敷かれた道が見つかり「晴湖の道」として再現されました。

成田氏館跡(なりたしやかたあと)

上之545-3に所在する。成田氏は、初代助高から九代親泰に至る400余年熊谷市上之にやかたを構えていましたが、延徳3年(1491)、親泰が忍大丞を攻め滅ぼし、本拠地を忍城(現在の行田市)に移しました。現在、館跡やかたあと遺構いこうである堀や土塁は見られませんが、地元の話や地形図から判断すると二重の堀をもつやかたであったことが考えられています。
熊谷市指定記念物史跡。昭和37年11月3日指定。

鹿児島壽蔵歌碑(かごしまじゅぞうかひ)

「鐘楼に 新藁つみて にぎはしき み冬とぞ思ふ 上之のみ寺」
昭和51年、寿蔵を熊谷に招いた棚沢慶治が発起人となって、上之の龍淵寺建てられたものです。
鹿児島寿蔵(1898-1982):人形作家・歌人。福岡市生まれ。有岡米次郎に博多人形製作を学ぶ。1932年紙塑しそ人形を創始。アララギ派の歌人でもあり、島木赤彦・土屋文明に師事し、1945年短歌雑誌『潮汐』を創刊する。1961年紙塑しそ人形の人間国宝となる。昭和20年東京田端の自宅が空襲で焼失し、熊谷在住のアララギの歌人・棚沢慶治の計らいで、市内上之に疎開し、7年間居住した。

上之村神社本殿(かみのむらじんじゃほんでん)

社伝によると、応永年間(1394-1428)に、成田左京亮家時さきょうのすけいえときが社殿を再建し寄進したと伝えられる、一間社流造いっけんしゃながれづくりの本殿。屋根は銅板葺で、軒廻りや蟇股かえるまたに十二支の彫刻を施している。江戸時代前期の簡素で古い形式をとどめています。
埼玉県指定有形文化財。昭和41年3月8日指定。

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このページについてのお問合せは

中央公民館
電話:048-523-0895(直通) ファクス:048-523-0896

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